世の中には「男らしさ」とか「男の美学」といった言葉がある。
これらは一見、普遍的な価値観のように聞こえるけれど、実際にはその定義は千差万別だ。
誰かにとっての「美学」は、別の誰かには全く響かないこともあるし、
むしろ滑稽に映ることさえある。
現代は多様性の時代
「男らしさ」とか「男の美学」なんて古めかしい考え方かもしれない。
実際、固定的な価値観を押し付けるのは時代遅れだし、
そんなものは必要ないという意見もごもっとも〜。
それでもなお、自分自身の中に「こうありたい」と思う姿を持つことは、
決して無意味ではないと感じる。
多くの場合、「男の美学」というのは自己を律する姿勢や、
自らに課すルールのようなものじゃなかろうか・・・・
たとえば、「弱音を吐かない」「背中で語る」といったようなことか。
ただ、これらは誰かに強制されるものではなく、
自分の中で「こうありたい」と思う理想像にすぎない。
しかし、ここで面白いのは、この美学がしばしば「自己満足」と紙一重である点だろう。
例えば、誰もが気づかない小さな努力を日々積み重ねる人は、
「自分が納得できるからやっている」と言うかもしれない。
だが、それが本当に必要なのかと問われれば、
「いや、別に必要じゃないんだけど…」という答えが返ってくることもある。
では、なぜ人はこうした美学にこだわるか?
その答えの一つは、「自己満足」の追求にあるのでかなかろうか。
美学を貫くことが他者に評価されなくても、
自分自身が「これでいい」と思える状態を作り出すための行動だったりする。
自己満足とは聞こえが悪いかもしれないが、実際にはこれが大切。
たとえば、オシャレなスーツに身を包んで出勤する人。
その姿を見た周りは何とも思わないかもしれない。
けれど、その人自身が「これが自分だ」と胸を張れるなら、それは間違いなく成功だ。
誰かに褒められるためではなく、自分が自分を好きになるための行動。
これが男の美学であり、自己満足の本質ではないだろうか。
また、男の美学は他人には見えないところでこそ輝くものでもある。
家族や友人に気づかれなくても、日々の習慣や努力を続けるのはなぜか?
それは誰に見せるためでもなく、自分にとって大切だからだ。
その姿勢がやがて周囲にじわじわと伝わり、気づかぬうちに影響を与えることもある。
「男の美学」と「自己満足」は切り離せない関係にある。
美学とは、突き詰めれば自分自身が納得するための行動規範であり、
他人に認められる必要はない。
むしろ、それを貫く姿勢が自分にとっての誇りであり、生きる力になるのだろう。
誰かの評価を気にしすぎることなく、自分だけの美学を見つけ、それを楽しむ。
そんな自己満足を大切にする生き方こそ、真の「美学」なのかもしれない。