「プラハの春」と聞いて何が思い浮かぶだろうか?
歴史の時間で習ったような・・・・ぐらいの感覚だろうか?
1968年・・米ソが冷戦状態だった真っ只中で
東欧諸国の中の一つであったチェコスロバキアで起きた民主的な動きを
当時の人たちは「プラハの春」と呼んだ。
この「プラハの春」を推し進めたのが
チェコスロバキアの指導者・ドプチェク共産党第一書記(当時)だった。
しかしその年、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍が
「共産主義を守る」という名目で侵攻。
首都プラハは占領され、
ドプチェク氏はKGBに拘束され、「プラハの春」は終焉した。
「プラハの春」から20年あまりが過ぎた1989年。
東欧諸国全域が民主化への道を歩み始めた。
ベルリンの壁が崩壊する衝撃的な映像が世界を駆け巡ったとき、
チェコスロバキアでも民主化の流れが進み、
ドプチェク氏は復権、連邦議会議長に就任し、
再び表舞台へと返り咲いた。
1991年、ドプチェク議長が来日。
名古屋某所にて彼の講演会が開催されて、
すだちはその会に出席する機会に恵まれて参加した。
彼が熱く語ったのはやはり「プラハの春」のこと。
当時、ソ連からは猛烈な批判にさらされていて、
いつかは逮捕されることも覚悟の上で、
彼は国民が求める表現の自由、言論の自由を守ろうとしたのだ。
彼は時代を先取りしていた。
しかし、チェコスロバキアという小国の指導者であったが故に、
歴史の流れの中に葬りさられてしまったわけだが、
もし彼がチェコではなく、ソ連の指導者であったならば、
確実に歴史は変わっていたはずだ。
さて、その後の彼はどうなったかと言うと・・・
1992年に入り、民主化は一気に進み、
いつしか「ドプチェクは時代遅れだ」と批判されるようになる。
その年、彼は議長を退任したが、その後交通事故がもとで亡くなった。
時代を先取りしたがために潰された彼は、
いつしか時代に取り残されていくというなんとも皮肉な運命。
時代の流れに翻弄された彼だったが
彼は人間の心をもった政治家だったと感じたのだった。
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